法住寺は、永祚元年(989)に藤原為光公が創立されたところで、寛和元年(985)の6月になくなられた夫人と、同年七月になくなられた息女忯子の菩提をとむらう為でした。忯子という方は第六十五代花山天皇のお后にお立ちになり、僅かに八ヶ月でおなくなりになりましたが、天皇はこの弘徽殿の女御をお悼みになり、翌、寛和二年の六月にひそかに御所をお出ましになって、山科(山科区)花山の元慶寺でお髪を落として法皇となられたのです。為光公は後に正一位太政大臣となられた方で、その創立された法住寺は、祖父君の摂関藤原忠平公の法性寺の地の北方に当る広大な地域にわたって、大そう栄えていたのですが、不幸にして長元五年(1032)焼失してしまいました。
法性寺の地域は唯今の東福寺から西の方賀茂川原附近に及んでいたのですから、当初の法住寺は南は八条通りから北は七条通りより更に北方に延び、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除いて東山の山裾に及び、西は今の大和大路にまで及んでいたのです。
その後、変遷はありましたが、第七十七代後白河天皇は保元三年(1158)に皇位を皇子の二条天皇にお譲りになり、法住寺の地を院の御所と定められて応保元年(1161)に新造御所にお遷りになりました。この法住寺殿へは、二条天皇をはじめとして朝覲行幸(天皇の念頭の挨拶)が年々行われました。特に皇子の高倉天皇(母は女御の平滋子、のちの建春門院)はよく行いました。また、高倉天皇の中宮の平徳子(建礼門院、清盛と時子の子)が入内したのもこの御所からでありました。
後白河上皇は、永暦元年(1160)には、最も尊崇された日吉(滋賀県)、熊野本宮(和歌山県)の神々を、法住寺内に勧請されて、新日吉・新熊野神社を創立され、新日吉祭小五月会や熊野御幸(紀州三山御幸)前の御精進には必ず御参詣・御参籠なさいましたが、実に、上皇の熊野御幸は前後三十四回にも及んでいたのです。
上皇は、平清盛公に命じて法住寺殿域内に蓮華王院を造営されましたが、長寛二年(1164)十二月にはその本堂が落成しましたので、十七日に親しく臨んで供養されました。三十三間堂の名で有名な一千一体の十一面千手観音像を安置するお堂は、実に後白河上皇の法住寺殿内の御堂であったのです。
仁安二年(1167)には法住寺殿内の上皇御所の新造も成り、更には新御堂・不動堂も竣工して寺観はますます盛大を極めました。
上皇は、嘉応元年(1169)に御年四十三歳をもって、未園城寺の長吏覚忠を召して受戒され、法皇となって法住寺殿内の仏堂に御住院になりました。その後、比叡山の妙法院を賀茂川の東の綾小路に移して昌雲僧正に法住寺・新日吉神社をお附けになった為に、妙法院は、後白河法皇を第一世とする綾小路門跡(後に新日吉門跡)をしょうするようになりましたが、事実上の門跡は法皇の法住寺に始まるのです。
法皇は、院御所の六条殿内に長講堂を造営して阿弥陀三尊像を安置し、嘉応二年(1170)には東大寺で改めて受戒され、院政の多忙の中、仏事を厳重に修法されました。
法皇が五十の賀を迎えられた安元二年(1176)三月四日には、高倉天皇が新しく法住寺殿に行幸されましたが、その翌年治承元年(1177)には、法皇は百ヶ日にわたって長講堂で法華八講を修され、多くの方々の名を記した過去帳を納めて供養されました。そして、その年の末には蓮華王院の五重塔の落慶供養に、天皇と共に臨まれたのです。
法住寺への行幸・行啓、ご参拝のことは甚だ多く、殊に天皇の行幸が方違すなわち方除けの御祈願を目的とされた場合の多いことは、後白河法皇のご病気平癒の為にお身代りの利生を加えられた不動尊が、又方違に功徳を垂れられたことを明らかに物語るものと言えましょう。
寿永二年(1183)、平清盛公の亡くなられた二年後、木曽義仲が法住寺殿を襲いましてからは、法皇も楊梅の北、西洞院の西(下京区)に在りました六条殿に長講堂を再建され、お遷りになりました。この御殿も長講堂も文治四年(1188)に焼亡し、程なく御殿の復興を見て、法皇は建久三年(1192)三月十三日にそこで六十六歳をもって崩御され、法住寺殿の法華堂に十五日に葬り奉ったのです。
その後、明治に至るまでは妙法院の院家の待遇を受けて、法住寺陵と妙法院歴代門跡法親王の御墓を守り、身代り不動尊像に対する篤い信仰を集めて来ましたが、維新以後は、後白河天皇陵と法親王御墓とが宮内省の所管に移りましたので、大興徳院の寺号をもって御陵墓と境域を別にすることとなったのです。
ところが、明治初年に親鸞上人御自作の阿弥陀如来像と上人坐像とが、妙法院の敦宮の思召しによって当寺に遷されることとなり、浄土真宗の開宗に最も深い由緒を伝える御自作像に対する信仰は、身代り不動尊に対する崇敬と相まって、年をおって寺運を興隆させることとなり、殊に維新以来復活修法されています十一月十五日の採灯大護摩供は、法住寺創立当寺からの修験の法流にのっとっており、戦時といえども中断することなく、京都近郷にもその比を見ない盛大さを誇っております。
昭和三十年、法住寺の名を止めるため大興徳院は法住寺と復称されることとなりました。
法住寺殿周辺図(当山蔵)