後白河法皇木像奉安

法住寺陵御前立
後白河法皇御木像奉安

御造顕 平成三年五月
平安仏所 江里康彗師

法住寺は後白河法皇が院の御所として御創建されました法住寺殿の御聖跡で、法皇の御墓所である法華堂を御守りしてまいりました。

『京都坊日誌』に
後白河天皇法住寺陵
三十三間堂廻りに在り。〔古の法住寺にして、今の養源院と大興徳院(現法住寺)の間に存す。〕尭然法親王外三墓を合せて、垗域周囲九十間とす。大正四年外に二百六十坪を拡張す。同七月大に修理を加ふ。中間〈新造〉を入り西面に法華堂あり。東西四間七寸、南北五間四尺七寸。単層入母屋作瓦葺とす。堂下即ち御陵なり。堂内壇上に上皇の宸影〔木像坐像三尺計。法服を着御し手に念珠と経巻を持せらる。〕を奉安す、運慶の作る所と。旧時は毎年三月十三日(旧暦)、妙法院より法要を修し、開扉して同日限り、庶人に参拝を許されしと。常に大高徳院(現法住寺)が奉仕に任ず。維新以来、官内省諸陵寮の管理する所となる。

とあります。
昭和三十年に法住寺という寺名を歴史に残すため、明治維新に御陵と寺域が分割されました時、当時の妙法院の宮様より御陵御守りの功徳によっていただきました大興徳院という寺名より「法住寺」に、前住職赤松祐成によって復名されました。
また、昭和三十五年には、法住寺陵法華堂には運慶作と伝えられる後白河法皇御木像が御安置され、明治維新までには年に一度ご命日に限り御開扉、参拝が許された由、その後は今日まで御開扉されたことはございませんでした。
平成三年、八百回の御忌を迎えるにあたり、旧厨子を御下賜頂いておりますことから、法住寺陵御前立御尊像御像顕を発願し、宮内庁にその意をお伝えしましたところ、平成二年三月にご了解をいただき、書陵部の資料をもとに平安仏所の江里康彗師にお願いし御像顕の運びとなりました。

  • 御木像御開扉
  • 毎年五月一日から七日まで午前九時〜午後四時
  • 法要
  • 毎年五月三日
  • 今様歌合せ
  • 毎年十月第二日曜日午後三時
後白河法皇木像