浄土真宗の御開祖親鸞聖人が、いまだ比叡山西塔の聖光院門跡範宴として御住院中の十八歳の年(建久二年・1191)に自ら阿弥陀如来の立像をお刻みになり、これを御本尊とする無量寿院を御創建になってそこにお入りになりましたのが、久しく女人禁足の地であった西塔の地からこの御影を移して、一般信者の人々がお参りできるようにしたいという仏光寺の学頭信暁の願いによって、無量寿院羅溪慈本が東山渋谷の仏光寺の旧地にまつられたもので、天保五年(1834)九月に慈本が移座しました当時の記録と共に、明治の始めから当山におまつりすることとなりました。
この御像は聖人なた作の如来像と呼ばれ、御背に其心という朱印が二つ押され、御足に聖人の花押(書き判)が朱と墨で三字記されており御自作が明らかにされております。