この木像は聖人御自作の坐像で、聖人が二十八歳の年、すなわち、建仁元年(1201)無量寿院御住院中に百日の間、毎夜比叡山を下って六角堂に参籠されました頃、聖人の身代りとなって留守居を勤め、天台座主の召しに応じて衆僧と共に「そば」の振舞を受け、聖人のいますが如く食べ終わったという伝説があり、聖人が浄土真宗をお開きになった当時の御苦行を語るものということができます。この御像も天保五年に山を下って東山渋谷に移され、更に明治の初めに当山に安置されることとなったもので、大仏天祐(当時の住職で妙法院門跡となられた高僧)が、妙法院宮(敦宮)の思召しにより移座したものです。